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第6話 -宗教(2)-



 今回は、前回の宗教(1)にひきつづき宗教(2)として仏教をとり上げたいと思います。
 仏教は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などに比べると、私達にとって身近な存在で親しみが感じられますね。しかし、その説く教え(=仏教でいう真理)は、それほどやさしいものとはいえませんし、仏教全集のボリュームは何万巻にものぼるといわれています。
 そこで、ここでは仏教のもっとも重要なエッセンスに的(まと)をしぼる。そして質問と答えの形式をとりながら思考を重ねていってみたいと考えています。
 なお、出席者は、前回(第5話 − 宗教(1)− )とおなじ顔ぶれになるので、知りたいかたは こちら をご参照ください。





司会(松山):
 では、さっそく始めたいと思いますが、みなさん心の準備はよろしいですか?

(出席者がうなずく)

司会(松山):
 まず白井さんにうかがいますが、自分とはいったい何でしょうか?

白井:
 えっ、『自分とはなにか』っていうご質問ですか?
 そんなこと、いままで考えたこともないですね(とやや思案顔)。
 たしかに私は今ここにいますけれど・・・。

司会(松山):
 では今、そこにいる自分というものをどのように感じていますか?

白井:
 みなさんも同じだと思うのですが、やはりかけがえのない存在、いとしい存在だと感じています。

中沢:
 ぼくもそうですね。
 お釈迦(しゃか)さまが生まれたとき、片方(かたほう)の手は天をさしもう片方の手は地を指して、「この宇宙に自分より尊いものはない」といった。そういい伝えられてもいるわけですし。

司会(松山):
 なるほど、
 “天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)”ということですね。
 私もあなたも、つまりだれでもがみずからの奥底に持っている -他人にその居る場所をゆずることのできない - 絶対的な自分。そういう“私”というものを感じている、ということでしょうか。

(出席者一同がうなずく)

司会(松山):
 では、他人・・がと・・って・・かわ・・るこ・・との・・でき・・ない・・絶対・・的な・・自分・・ですが、その実体(=中味)って何でしょう。
 白井さん、どうでしょうか?

白井:
 私の実体、つまり中味ですか。これまで生きてきた経験のつみかさなったものといったらいいのかしら。よくわからない。
 なにか、ヒントをもらえませんか。

(近江が手をあげた)

近江:
 その質問への答は、今回のテーマになっている仏教の教えのなかにあるんですね。もっといえば、般若心経(はんにゃしんぎょう)というみじかい経典のなかの有名な文句にある。それがヒントですね。

白井:
 (しばし沈黙がつづく)

 えーと、有名な文句といえば、やはり“色即是空(しきそくぜくう)”でしょうかしら。

近江:
 はい、色(いろ)すなわちこれ空(くう)なり、ということですね。
 で、その意味ってどういうことでしょうか?

白井:
 形があるように見える物でも、実体は空(くう)である。
 たしか、そんな意味だったと思いますが。

近江:
 般若心経には、五蘊皆空(ごうんかいくう)という言葉があります。五蘊(ごうん)というのは、ひとことでいえば、人(ひと)のからだとこころのこと。それは、色(しき=肉体のこと)、受(じゅ=感じる作用)、想(そう=表象作用)、行(ぎょう=意志・記憶)、識(しき=認識作用)の五つからなりたちます。
 ですが、そのどれもが空(くう)である。したがって、空からなりたっている人というものも、また空(くう)である・・・・。

北野:
 すると、“色すなわちこれ空なり”というばあいの色には“人”も含まれるわけですか。

近江:
 そうですね。

司会(松山):
 五蘊皆空は、だいじなポイントですから、近江さんにもう少し解説してもらいましょうか。
 近江さん、お願いします。

近江:
 (うなずいて)五蘊皆空の空(くう)は、原語でシュニャータといいます。
 この空(=シュニャータ)というのは、くだいていうと、①すべては、つねに変化しつづけていくもの(無常(むじょう))で、②他と無関係に存在できるものはなにもない(無我(むが))、ということ。この①の無常と②の無我をひとつにまとめたのが、空(くう)だということになります。

白井:
 無常というと、なにかとても虚無的(きょむてき)な感じがするのですが・・・。

近江:
 いえ、『般若心経』では虚無感を否定しているんですね。それで、臨済宗の松原泰道(まつばらたいどう)さんなどは、常に・・移り・・変わ・・りつ・・つあ・・ということを、英語の動詞にingをつけて説明しています。

北野:
 それは、人も物も私たちをとりまく環境のすべてが、いまもじっと止っていないで進行中である。それがつねなし(=無常)の意味だということなんでしょうね。

近江:
 そう思います。

司会(松山):
 余談になりますが、だいぶ前に松原泰道さんの書かれた「百歳で説く『般若心経』」を購入したんですね。東京駅前の書店で。たまたまそのときサイン会をやっていたんで、本の見開(みひら)きに一筆書いてもらいました。

北野:
 何を書いてもらったんです?

司会(松山):
 “心”という漢字の一文字でしたが。

北野:
 老師はもう亡くなりましたよね、だいぶ前に。ぜひ、その“心”という字を拝見したいな。

司会(松山):
 いや、見せてあげたいんだけれど、どこかに隠れちゃったらしくてその本が見つからないんですよ(笑)。でてきたらお見せします(笑)。
 さて、余談はさておき本題に戻りましょう。
 “無常”についてですが、松原さんは「百歳で説く『般若心経』」のなかで、花にまつわる句をひきこういっています。

  “三日見ぬまの桜かな”

 これは、一般的には無常的に受けとめられている(つまり虚しさになっている)。しかし、わずか三日見ないあいだに蕾(つぼみ)がこんなにも大きくなったかという、積極的な面もある。このように、両義的に見ていくのが般若心経の「空観」なのである、と。

北野:
 人間のからだだって、表面的に見たかぎりではその変化はわからない。だけど、からだの中ではつねに細胞が死んだり、新たに生まれたりしているわけですよ。

中沢:
 そうそう。で、筋トレをやれば、そのときはわからないけど、からだの中では変化が起きている。だから、やがて筋肉が太くなりマッチョなからだになる。ぼくはやせマッチョが好みですが(笑)。

司会(松山):
 さて、つぎに②の無我(むが)について、近江さん、解説をお願いします。

近江:
 はい。
 無我というのは、一切のものが他との関係のなかではじめて存在できる。そのものだけで、他と無関係に存在できるものは何もない。そういった意味になります。

北野:
 インド哲学に、自我の本質を意味するアートマン(我(が))という言葉がありますね。無我は、永遠不変の実体的存在であるアートマン(我)を否定するのでしょうか。

近江:
 はい。
 そうなりますね。さきほどの松原禅師も、「存在」についてこういっておられます。
 お釈迦さま以前の考え方では、「原因」というものは神から与えられたもので固定され動きがとれなかった。で、宿命といった暗さがあった。
 しかし、お釈迦さまは(そうではなく)流動的な考え方をされた。どういうことかというと、「縁(えん=契機・条件といったもの)」が原因にはたらきかけることにより原因が変化し、当然結果も変ってくるのだ、と。これが仏教でいう『縁起』ということですね。

北野:
 すると、お釈迦さんは、「縁によってすべてが生ずる」と考えられたんですか?

近江:
 そうなのです。
 お釈迦さまの思想は、原因があって結果が生まれるというもの。しかし、その原因というものも、けっして固定的な実体をもったものではない。“縁”のはたらきかけでつねに変わるもので、すべては「縁起(えんぎ)による」という考えかたなんですね。

北野:
 原因も我(が)も、いずれもが永久・不変のものではないという点において同じだと見るわけですね。

近江:
 そうですね。

司会(松山):
 この釈尊の「縁起」という考え方は、アートマンの否定(=無我)とともに、革命的な思想・・・・・・といってよいでしょうね。

白井:
 いろいろと教えていただきましてどうも。
 お釈迦さまの空(くう)の思想というものがわかったような気がします。ですけど私、いまひとつピンとこないんですよね。というのは、今ここにいる私という存在。それが空であり、他との関係のなかではじめて存在するというのがどういうことなのか・・・。

近江:
 西洋の数学は、整数の一からはじまりますよね。
 ですが、インドで0(=零(ぜろ))が発見されました。空(くう)というのはこの0(ゼロ)に同じで、一般には何もないという意味と、むなしいものという意味があります。

白井:
 すると私は、むなしい0(ゼロ)ということですか?

司会(松山):
 いや、むなしいほうの0(ゼロ)ではなく、何もないほうの0(ゼロ)と考えたほうがわかりやすいでしょうね。白井さんは単独では何もない・・・。

白井:
 それにしても、私が何もない0(ゼロ)というのは、いまひとつ飲みこめないですね。

司会(松山):
 それでは縁起・・というのを関係・・という言葉におきかえて考えてみましょうか。
 たとえば、いまは2018年ですね。この中の0をとったら、218年となって今年・・はなくなってしまう。つまり、0は、「」と「18・・との・・関係・・においてはじめて(今年=2018年)という意味をもつわけです。

白井:
 ああ、そうか。
 両親に夫や子供、会社の社長さんや同僚といった他との関係で、はじめて私というものが存在するということですね。

司会(松山):
 ええ。それにそもそもが、ご両親あっての白井さんですよね。そのご両親やおじいさん・おばあさん、さらにはひいおじいさん・ひいおばあさんのどなたが他の人と入れかわっても、あなた=白井恵子という人はこの世に存在しない。

白井:
 うーん、それが縁起ということなのですね・・・。
 どうやら納得できました。ありがとうございました。

司会(松山):
 では、空(くう)についてはそのくらいにして、話を先に進めることにします。
 つぎは、『私たちはいったいどのように生きたらよいのか』という問題です。これは、縁起や無我の考えかたにかかわりの深いものですが、この問題に入るに先だって、まずは仏教の成り立ちからみていきたいと思います。
 中沢さん、仏教が誕生したいきさつあたりからお願いします。

中沢:
 わかりました。
 仏教をひらいた開祖は、ゴータマ・シッダールタという人です。この人が生まれたのは、今からだいたい2500年ほど前のこと。ヒマラヤ山麓(さんろく)の小国・シャカ族の王子(一人息子)として、インドで生まれました。

白井:
 お釈迦(しゃか)さまって王子様だったんですね。でも、そんな身分の高い人がどうしてまた・・・。

中沢:
 (どうして)仏教なんかを始めたのかですよね、知りたいのは。その理由の一つは、小さなシャカ族の隣には、そのころ強大な勢力をもったコーサラ国があった。で、いつ自分の国が滅(ほろ)ぼされるかわからない恐怖もあったと思うんです。

近江:
 (笑いながら)補足すると、幼いころのお釈迦さま、つまりゴータマ・シッダールタは、自然界での弱肉強食を目(ま)のあたりにしたといいます。土の中から小さな虫がでてくると、それを見つけた小鳥がついばんで飛んでいく。すると、さらに大きな猛鳥がその小鳥に襲いかかる。お釈迦さまは、幼いころそういう光景を見て、命の・・はか・・なさ・・を感じていたのではないかと思います。
 そういう小さな虫の姿と小さな国の王子という自分の姿。それがダブって見えたこともあったでしょうね。

中沢:
 そして、あるときゴータマ・シッダールタは、宮殿から遊園に向かおうとしたとき大きなショックをうけたといいます。
 髪は白く、やせ衰(おとろ)えてよぼよぼ歩いている腰のまがった老人。苦しみにあえいでいる病人やおおぜいの人びとにかつがれた死人。その人たちの姿をみて、ゴータマ・シッダールタも、いつかは自分もああなる身だと知っての衝撃だった。

近江:
 つまり、というもの。それは人間という存在そのものがもつ苦しみで、自分も例外ではない。そう感じたのでしょうね。
 ところがそのあと、城の北門で出家修行者に出会う。それがゴータマ・シッダールタの人生観をかえたきっかけではないかと思われます。

司会(松山):
 そのようですね。その修行僧は顔色もはれやかで、落ちつきがあった。それに、世俗の汚(よご)れとか悩みをはなれた、深い洞察(どうさつ)力を身につけた人と見うけられた。
 で、ゴータマ・シッダールタは、自分も出家(しゅっけ)して不死の境地を得たい。心の中にそういう願望がわきあがってきた・・・。

近江:
 ええ、それで彼はあるときこっそり城をぬけだします。そしてを求めるために、名高い師のもとをつぎつぎに訪れて教えをこう。ですが、どれも自分の求めているものとはちがった。
 で、ゴータマ・シッダールタは、とうとう苦行へとつきすすんだわけです。

司会(松山):
 ゴータマ・シッダールタの行なった苦行は、自分を死の一歩手前まで追いこむほどのすさまじいものだったようですね。ついには断食まで行なっています。
 だけども、六年間でやめるんですね。自分がほんとうに求めているものは、苦行や断食では得られないとわかったので。

近江:
 彼は、スジャータという少女のさしだす乳粥でおとろえた体力を回復する。そして、菩提樹(ぼだいじゅ)の木陰に村人がしいてくれたやわらかな草の上に座り、禅定(ぜんじょう)に入るんですね。とても深い禅定に。

中沢:
 やがて、彼の内部の深いところに“悟り”がおとずれる。

近江:
 ええ。その悟りで、(幼名の)ゴータマ・シッダールタがゴータマ・ブッダへと生まれかわるんですね。35歳のときのことですが。

白井:
 悟りって、どういうことなんですか?

近江:
 釈迦がなにを悟ったのか、またどのように悟ったのか。それについては、わからないというほかないですね。というのも、悟りそのものはブッダ=お釈迦さまの内奧(ないおう)にあるもので、はたから窺(うかが)い知れるものではないですから。

北野:
 でも、お釈迦さんは、説法をしながら行脚(あんぎゃ)していますね。その説法から悟りの内容をおしはかれないんですか。

近江:
 (うなずきながら)たとえば、律蔵(りつぞう)『大品(だいぽん)』には、最初の説法の内容が記されています。
 中道(ちゅうどう)のことですとか、四諦(したい 人生に関する四つの真理)、それに八聖道(はっしょうどう 実践すべき八つの徳目)のことなどが。
 でも、釈迦は相手をみて説法をしたといいます。ですから、大品に書かれたことがイコール悟りの内容とはいえないんですね。

司会(松山):
 いずれにしても、お釈迦さんは35歳で悟(さと)りをひらいた。そして80歳で亡くなるまでの45年間、インドでおしえ(法=真理)を説いて歩いた。それが弟子たちによって書かれた経典(きょうてん)にのっていて、インドに存在した・・・。
 すると、その経典をだれ・・が、どう・・いう・・ルー・・トで・・日本にもちこんだのか。
 中沢さん、そのあたりを説明してください。

中沢:
 わかりました。
 かつて中国に、玄装(げんぞう)三蔵法師という僧がいました。孫悟空(そんごくう)でおなじみのお坊さんですね。629年、彼は29歳のときに一人で長安を出発してインドに行きます。45歳で長安に戻ったんですが、ロバとラクダの背に積んでもち帰ったのが経典(きょうてん)だった。中国に伝えようとインドに滞在して、釈迦の法(おしえ)を写しとってきたというわけなんです。

白井:
 で、おしえ(法)は中国で広まったんでしょうか?

  (ここで近江が手をあげた)

近江:
 じつは、玄装より2世紀ほど早く法顕(ほっけん)という中国の僧がインドに行っています。ですから中国で仏教が広まったのは、もっと早かったんですね。ですが、仏教を否定する人たちによって仏書・仏像がことごとく焼かれたり、ふたたび定着したりと、いろいろ紆余曲折(うよきょくせつ)があったんです、中国では。で、中沢さんは、話をわかりやすくするために法顕のことをはぶいたんだと思います。

(そういって近江が中沢のほうを見た)

中沢:
 そのとおりです。
 玄装の前に、すでに法顕というお坊さんが中国に仏教を広めていた。それは事実です。
 だけども日本の仏教というのは、インドから玄装・・が中国に伝えたもの。それが中国・・をへて入ってきたものなんですよ。それがいいたかったんです、ぼくは(苦笑)。

司会(松山):
 わかりました。中沢さん、汗をふいてください(笑)。
 その玄装が訳した経典を日本の僧たちが中国に渡って学んだ。そして、それを写して日本に持ち帰った。そういうことなんですね。
 では、つづけてください。

中沢:
 日本の僧たち、たとえば、最澄(さいちょう)・空海(くうかい)・栄西や道元(どうげん)といった情熱のある若き僧たち。彼らが中国大陸にわたって仏教の修業をした。そして、たくさんの経典のなかから、自分の感性にあったおしえ(法)を身につけて日本に帰り、自分の宗派をうちたてたというわけです。
 最澄が天台宗・・・、空海が真言宗・・・、栄西が臨済宗・・・。それに道元が曹洞宗といったようにですね。

近江:
 それに親鸞(しんらん)のように、念仏(ねんぶつ)をとなえることを自分のテーマにした僧もいましたね。

司会(松山):
 そうですね。
 じつはすべての宗派についてみていきたいのですが、時間の制約がそれを許してくれません。で、ここでは(涙をのんで)とくに禅のおしえ(法)を中心にみていくことにしたいと思います。

今里:
 質問がございます。に的(まと)をしぼるとしましても、中国の僧が日本に伝えた禅、たとえば鎌倉の円覚寺とか建長寺に伝わるものですね。そういう禅と、日本の僧が中国に留学してもち帰ったもの、たとえば京都の東福寺や南禅寺に伝わるものですね。この二つは微妙に味付(あじつ)けがちがうように思いますが?

司会(松山):
 なるほど。
 そういえば、今里さんのご主人は、曹洞宗のお寺の住職をされていたんでしたね。では、禅のなかでも日本の僧・道元が中国に渡って学んだ曹洞禅を中心に話を進めましょうか。臨済禅にもふれながら(笑)。

(出席者から笑い声)

司会(松山):
 そういうことで、ここはひとつご住職の奥さまにお話をうかがうことにしましょうか。今里さん、よろしくお願いいたします。

今里:
 わたくしはみなさまのように、理路整然(りろせいぜん)とお話をできませんが、ご指名ですので・・・(微笑)。

 (出席者から拍手)

 禅宗では、先さきほどお話にでましたお釈迦さま(わたくしどもは釈尊・・と申しております)を崇拝しております。
 うちの主人(住職)も釈尊をうやまい、「釈尊の法(おしえ)の伝承者として、オレは釈尊になりかわって説法しているんだ」。つねづねそう申しております。

近江:
 つまり、釈尊のおしえ(法)がれんめんと伝承されてきて、今里さんのご主人(=ご住職)にいたっていると考えるわけですね。

 (今里がうなずく)

白井:
 でも、どうしてご住職の今里さんが釈尊・・にな・・りか・・わっ・・て説・・法す・・んでしょうか?
 たんに釈尊の法(おしえ)を信者にお伝・・えす・・のではいけないのでしょうか?

今里:
 禅のありかたとしては、それはすこしちがうようなんですね。自ら・・をよ・・りど・・ころ・・とす・・。そのことがとくに大切なんだと思います。

司会(松山):
 釈尊が亡くなるときに、弟子のアーナンダはこうたずねます。「自分はこれまで釈尊をよりどころとして生きてきましたが、これから私はなにをたよりに生きていけばいいのでしょうか」と。
 すると、釈尊はアーナンダに、「これからは自分をよりどころとしなさい。」とこたえます。そして法(=仏教のいう真理)を説きなさい、と。

近江:
 法句経(ほっくきょう)に、「おのれこそ おのれのよるべ。おのれをおきて誰によるべぞ。よく調(ととの)えしおのれこそ まこと得がたきよるべなり」とあります。ほぼ同じことをいっているのではないでしょうか。

白井:
 発句経ってどういうお経なんでしょうか?

近江:
 とても古いお経でして、釈尊の説法の原形がもっとも残っているといわれているものです。
 四百二十三からなる詩のかたちをとっていて、暗唱しやすいお経ですね。

司会(松山):
 その発句経のなかでも、いま近江さんの述べた句がもっとも代表的なものといわれているんですね。
 松原泰道さんは、「仏教では、『仏とは、自分を整頓した人』という意味がでる」といっています。
 そして、鏡をみて自分をコントロールすることをすすめているんですね。

近江:
 つまり、人間の内部には自分をよい方向にリードしようとするはたらきが宿っている。
 それで、鏡を見るとふくれっ面(つら)もひとりでに好ましい顔になるというわけですね。

中沢:
 ちょっといいでしょうか。
 ぼくが調べたところでは、戦後の日本で創始された金剛禅・・・という新しい宗派があるんですね。その宗派では、先ほどの「よく調えしおのれこそ、まこと得がたきよるべなり」をモットーにしています。そして、演武・・をとおしてこころとからだをきたえることを実践しているといいます。なかなか合理的なありかたに思えるんですが。

司会(松山):
 武(ぶ)を演練(えんれん)することで、自分のからだとこころを調(ととの)えるわけですね。それもひとつのすぐれた方法でしょう、とくに若い人たちにとっては。
 現代を生き抜くためには、気力と体力がいるけれど、それに知性(教養)が加わったらまさに鬼に金棒ですね。

中沢:
 そうですね。

今里:
 ちょっとよろしいでしょうか?
 さきほどのお話に関連すると思うのですが・・・。

司会(松山):
 はい、どうぞ。

今里:
 中国の臨済宗には、「仏(ほとけ)に逢(お)うては仏を殺す」という言葉があるんですね。この仏とは釈尊をさすのですが。

白井:
 仏教の開祖を殺すとは、またずいぶんとぶっそうな話ですねぇ。

近江:
 それは、臨済義玄(りんざいぎげん)という中国臨済宗の祖の言葉といわれています。
 でも、殺す・・といっても、実際に殺すことではないんですよ。とら・・われ・・ない・・まど・・わさ・・れな・・という意味なんです。

今里:
 臨済は、こういっているんです。いちおうメモしてきましたが。

 (そういって、ふところ(懐)から紙切れをとりだす)

 “修行者たちよ、他人(ひと)に惑(まど)わされてはいけない。・・・出逢(であ)ったものはすぐに殺せ。仏に逢ったら仏を殺せ。祖(そ)に逢ったら祖を殺せ。・・・父母に逢ったら父母を殺せ・・・。そうしてこそはじめて迷いから抜け出して、・・・自由自在な境涯(きょうがい)を得ることができよう。”
 これは『臨済録(りんざいろく)』に書かれているんですが、主人などはわたくしのことさえ殺しかねませんね(笑)。

中沢:
 禅のほうでは、座禅を組んでおのれをよく調(ととの)える。そして、釈尊になりかわって説法をするということなんですね。そういう考えかたにたてば、いちいち他人(ひと)の意見に惑(まど)わされてはいけない。それはわかるんですが、それにしても臨済義玄の言葉は烈しいな。

今里:
 うちの主人なども性格がきついですよ。朝っぱらから座禅を組んで「自分は大宇宙と一体だ」なんて大袈裟(おおげさ)なことをいっているんですよ。わたくしのいうことなんぞには耳もかさずに。

北野:
 曹洞宗では、臨済宗が公案・・をもちいているのに対し、只管打坐(しかんたざ)を説きますね。
 ご住職はおしえに忠実なのではないですかね。

今里:
 どうなんでしょうか(笑)。

司会(松山):
 同じ禅宗のお坊さんでも、松原泰道さんはとても穏やかなかたでしたね。あのかたは臨済宗でしたか。

近江:
 ほんとうに。

今里:
 わたくし、こんど主人にいってやりますよ。「あんたなんか、袈裟(けさ)をきているから坊主とわかる。だけど、ネクタイをしめたらただのらっ・・きょ・・でしょ」って。

白井:
 どういうことです?

今里:
 いえね、坊主頭にネクタイをしめたらどう見たってらっきょうにしかみえないんですよ、うちの住職。

司会(松山):
 (笑いながら)さて、ここで先ほどの問題の「私たちはどのように生きたらよいのか」を考えてみたいと思います。
 では近江さん、お願いいたします。

近江:
 わかりました。
 まず禅の考えかたでは、おのれ(自分)をよるべ・・・とします(自力本願)。そのためには、自分をととのえることが大切だということですね。といいますのは、もともとゴータマ・シッダールタは輪廻転生(りんねてんせい)を信じていた。この考えかただと人間は死ねないんですね。するとの世界に生きつづけることになります。で、そこから抜けだすには、悟りをひらいて“人間をこえたすぐれた者になる”ことだと考えた。それが解脱(げだつ)ということなのですが。

司会(松山):
 解脱にはたいへんな修行がいりますね。しかし、悟りをひらいたあとの釈尊の説いたもと・・もと・・の仏・・は、自力修行だけだったんですよね?念仏をとなえるのではなく。

近江:
 そうですね。
 親鸞(しんらん)の浄土真宗のように、念仏(ねんぶつ)によって往生(おうじょう)を願うという他力本願(たりきほんがん)。それは大乗仏教(だいじょうぶっきょう)が生まれてから以降のことですね。

司会(松山):
 禅宗は、そもそもが他力本願への反省から生まれたと思うのですが。

近江:
 そのとおりです。まさに自力本願ですね。
 そのために禅宗では、座禅をたいせつにします。そして、自分というものは、人・物・環境との関係をとり去ったならば空(くう)=0である。つまり、自分はそれらのすべてによって生かされている存在だということに思いをいたす。すると、ひととの関係を大切にし、感謝と慈悲(≒博愛)のこころで生きることにつながります。

司会(松山):
 近江さん、ありがとうございました。

 さて、今回とりあげた仏教ひとつをとっても広くて深いもので、まだまだ論じたりない感が残ります。しかし、残念ながら時間がきてしまいましたので、これをもっていったん終了とします。また機会がありましたならば、続きをやってみたいと思いますのでご了承ください。







【まとめ】

 前回の宗教(1)では、世界最大の宗教・キリスト教まで進みました。今回(宗教(2))は、仏教をとり上げましたが、キリスト教を科学・・との・・関係・・でみてみると、面白いことがわかります。
 キリスト教では、奇跡(きせき)を信じるわけですね。イエスの死後の復活・・(生きかえり)だとか、処女・・マリアがイエスを産んだなど。それに、『旧約聖書』によれば、天地創造は全知全能の神(=創造主)がわずか6日間で行なったといいます。
 ですが、仏教では亡くなった人をよみがえらせることはできないし、それにお釈迦さんには、ちゃんと両親がいます。それに主たる法(おしえ)は、縁起(えんぎ)というものであって、『すべての結果・・にはかならず原因・・がある』(因果の道理)というものです。
 ですから仏教では、原因なくして結果の起きる処女懐胎(かいたい)といった奇跡は存在しようがないわけですね。
 かのアインシュタインも、仏教は近代・・科学・・と両・・立可・・能な・・唯一・・の宗・・教で・・ある・・、といっていますが、その炯眼(けいがん)はさすがだと思います。
 しかし他方において、仏教を標榜(ひょうぼう)したオウム真理教が、地下鉄サリン事件のような無差別殺人を起こした。逆にいうと、自分の人生を見失うことのないように宗教とつき合うにはどうしたらいいのか。それは、ひとつには、ものごとを鵜呑(うの)みにせず、ゴータマ・シッダールタのように熟慮し問いつめてみる。つまり哲学の・・・ありか・・・たのな・・・かに・・ある・・と思うのです。もともと仏教は、それ以前にあったイン・・ド哲・・やインドの原始宗教が母体になっているのですから。たしかに時には信ずることも大切ですが。
 もうひとつは、余裕をもつことですね。
 こういう実話があります。アメリカのあるカルト団体は、信者を勧誘するときに、高速道路の追いこし車線を走りつづけているドライバーをねらう。すると、成功する率(りつ)が高いというのです。そういったドライバーは、ほんとうは自分も走行車線をゆっくりと走りたい。いつも心の中でそう思って走っている。心に余裕がないので落としやすいというわけです。

 しかし、なにはともあれ、まずは自分をととのえることが第一だと思うのです。
 自分に合った方法でおのれをととのえながら人生を歩(あゆ)んでいく。心に余裕をもって。するとその途中に、あるいはその先に良いことが待っているはずです。

掲載日:平成30年12月03日




 さて、今回でセミナーも6回になりました。それに『宗教』はとても重いテーマでした。そこで次回はいったんセミナーをお休みにして、ミステリー小説(短編)を掲載することにしたいと思います。

 タイトルは『天才のしくんだ恋』 −人類滅亡への道か− という筆者(松山遼人)の未発表の作品です。どうかご期待ください。





 
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