著者   セミナー   お問い合わせ 






『天才のしくんだ恋』
−人類滅亡への道か−




晩秋―
 小山静江の住んでいる鎌倉の別邸に着いたのは、糠雨(ぬかあめ)の降る土曜日の昼下がりだった。北条宗政の霊を祀(まつ)る浄智寺。その向かいがわの切りたった岩壁をうちぬいた短いトンネルをくぐると、目の前に別世界があらわれた。広びろとした和風の庭園。奥のほうに大きな池がある。瓢箪(ひょうたん)の形をしているようだ。池のそばに樹々のあいだから五、六人の人影が見えた。ハッピを着ているのは植木職人のようだが、その人物をとり囲んで、腕章を巻いた背広の男たちが話しかけている。制服の警官もいた。
 (事故でもあったのかな) そう思いながら、高見友一(たかみゆういち)はしだれ桜の植えこまれた石畳を歩き、母屋の前に立つと、玄関脇の呼びりんを押した。おずおずした様子で。子供の頃から人見知りのはげしい高見は、人づきあいが根っから苦手なのだ。
 「はい、どうぞお入りください」 高見を出迎えたのは、二〇歳くらいの茶絣(ちゃがすり)の着物の似合う娘だった。細い鼻すじの通ったたいへんな美人だ。高見が名前をつげて来意を伝えると、娘はにこやかに、「はい、さきほどから奥でお待ちになっています。どうぞお上がりください」 と澄んだ声でいった。その喋り方やアクセント、それに仕草から、高見は(この娘は外国人か、それとも帰国子女なのかな)とおもった。だが、自分がいつもと違って吃(ども)らないのが不思議だった。
 裾捌(すそさば)きに見とれながら、その娘のあとについて長廊下(ながろうか)を歩いていくと、八畳ほどの日本間に通された。床の間を背にして品のいい老婦人がひっそりと座っている。サングラスをかけているが、その薄茶色のレンズとの対比で、床の間を飾る生花(いけばな)の白さがひときわ鮮やかだった。(この人があの日本画で有名な小山静江先生か) 高見は緊張でからだがかたくなるのを感じた。
 「さァ、どうぞ。お座りください。若いひとには正座はきついでしょう。遠慮せずに足をくずすか、胡坐(あぐら)をかいてくださいな」 そういって座布団をすすめると、静江は湯飲みをとって旨そうに茶をひとくち啜(すす)った。
 「マリちゃんから聞きましたが、あなた、うちの仔犬を貰ってくれるんですって? あとで一緒に犬小屋へ行ってみましょう。お好きなのを選んだらいいですよ」 気さくにそう話しかけた。マリちゃんとは、画伯の縁戚にあたる園田マリのことで、高見友一とは大学時代に同じサークルで古典を学んだ間柄だった。そのマリから、「小山先生のとこの柴犬が子犬を産んだんだけど、あなた貰ってくれない?」 といわれて、「自分も一匹欲しい」 と話したことが、今日の小山家訪問へと結びついていた。
 「は、はい」 声が震えた。それでも高見は、「自分も子供の頃から犬と一緒に暮してきたけど、柴犬はまだ飼ったことがないので、とても楽しみです」 といった。吃りながら。
 そこへさきほどの茶絣の和服を着た娘が、盆に茶菓(さか)をのせてそっと客間に入ってきた。高見は、あやうく吹きだしそうになった。動作がまるでカラクリ人形のようなのだ。娘は高見の前までくると、「粗茶ですが、どうぞ」 といゝ、テーブルの上に茶と羊羹(ようかん)を置いた。娘のさしだす手に目をやった高見は、ほっそりと透きとおるような色の白さに目をみはった。おもわず触ってみたくなるほどの滑(なめ)らかさなのだ。
 静江が「お客さまにご挨拶がまだでしょ」 というと、娘は高見のほうを向いて、「わたし、北条真緒(まお)と申します。どうか、お見知りおきくださいませ」 そういって、にこやかに頬笑んだ。笑うと左右の頬に笑窪(えくぼ)ができた。高見も会釈(えしゃく)をかえした。そのあと、真緒も静江に言われてテーブルにつき、話の輪に加わった。
 「高見さんは、大学の図書館で司書をしているとうかがっているけど、よっぽど本がお好きなのかしら?」 と静江がたずねた。「人とのつき合いが苦手なもので、あまり人と話さないですむ今の仕事を選んだんです」 と高見はたどたどしい口調でいった。「司書の仕事をするには、もっと勉強をしなければいけないんですが」
 すると、小山静江は、
 「人間、一生勉強です。わたしなんぞ、もう三年ほどこの梅の古木だけを描いていますが、この年になっても満足なものはいっこうに描けません。」 といった。「そしたら近ごろ梅の木が枯(か)れてきちゃったのよ、わたしがあんまり見つめたせいでしょうね」 とつづけた。高見が意味を理解できずにぽかんと口を開けていると、静江は笑いながらいった。「というのは嘘。じつは虫に喰われていたのね」。 だが高見にはその冗談が通じない。
 静江はかまわず話にをつづけた。
 「あたしはねぇ、いつも次の作品こそが自分のベストだと思って描いているの。芸術は爆発だといった画家もいるけど、あたしは不発爆弾。爆発するにはまだ時間がかかりそうね。だからあたし、永遠の命が欲しい」 といった。
 そのとき居間のほうから、あたりの静けさをやぶって電話の鳴るのが聞こえた。「この電話はねェ。来月パリで開く個展の打ち合わせのためのものよ。真緒ちゃん、あなた、先に高見さんを犬小屋に案内してあげて」。 そういうと、静江はそそくさと居間のほうへと去っていった。
 真緒とつれだって庭におりた高見は、下駄をはいて植え込みをぬうように狭い小径(こみち)を犬舎のほうに向かった。
 「小山先生はパリで、個展をひらくんですか。すごいですねェ。」 高見が話しかけたとき、左肘がやや後を歩く真緒の右の胸乳(むなじ)にふれた。そのふっくらとしたやわらかい感触に高見は内心ドキッとした。おくての高見がこれまで経験したことのないものだった。すると真緒は「あゝ、わんちゃんたちの姿が見えてきました、ほら、向うに」。
 前方を指さしてそういうと、夕靄(ゆうもや)のたちこめる中を小走りに駆けだしていった。高見もその後を追って、ゆるやかなのぼり坂をあえぎながらのぼっていった。すると、前方の草むらの上に、じゃれて転がる何匹かの仔犬の姿が見えた。真緒が犬舎から、仔犬を外に出したのだ。かるく息をはずませながら高見が近づいていくと、その足元にころころと太った一匹がじゃれついてきた。高見は、その子熊のような暴れん坊をつかまえると目の高さまでもち上げた。めいっぱい餌を食べたのだろうか、おなかがパンパンに膨(ふく)らんでいる。
 真緒が、「ほかのわんちゃんもご覧になったらいかがですか」 といった。そういわれて高見はあたりを見まわしたが、どうみても三匹しか見当たらない。
 「あれ、あと四匹いるんじゃなかったでしたっけ」 というと、真緒が、
 「今、警察の人が来ているんですが、じつは今朝(けさ)がた、池に落ちて亡くなった人がいるんですよ。一匹は、その人といっしょに池にはまって死んじゃったんです。」 といった。亡くなったのは、中年の画家だという。
 眉をひそめて真緒が、「あのわんちゃん、ほんとに犬死(いぬじ)にでした」 と冗談めかしていったが、高見はケゲンな顔をしている。高見には、犬が犬死にするという言葉のおかしさが理解できないのだ。
 「あッ、静江先生が来ましたよ」 とつぜん真緒が声をあげ、ゆるやかな坂をぎこちなく駆けおりていった。高見はあぜんとして、その姿を見送った。まもなく静江が真緒にだきかかえられるようにして、姿をあらわした。犬舎の前に立ったが、ゼえゼえと息が荒い。真緒が高齢の老画伯を気づかっていた。
 「真緒ちゃん、ありがと。でも、もう大丈夫よ」 といいながら、仔犬を抱いている高見を見た。「そのわんちゃんが気に入ったようね。どうぞ、可愛がってやってくださいな」 といったあと、「高見さん、じつはお願いがあるのよ。聞いてくれるかしら」 と改まった口調でいった。「はい、ぼくで出来ることでしたら」 だいぶ静江になじんだようで、言葉もスムーズにでている。
 「じつはあたし、来月から半月ほどのあいだ外国に行くの。その間、真緒ちゃんがこの家のお留守番をすることになるんだけど、お手伝いのお八重さんだけじゃァ夜が心配なのよ。お八重さんはかよいで夜はいないから。高見さん、この家に来ていてもらえないかしら。不躾(ぶしつけ)なお願いで申し訳ないんだけど」。 そして「もちろんお礼はちゃんと出します」 といった。
 離れのB棟には、今年二八になる小山紗弓(さゆみ)が住んでいる。静江の孫娘だ。真緒もときおり充電・・するために紗弓を訪ねていくのだが、なぜか静江は紗弓のことにはふれなかった。
 「はァ、すると、泊まり込みということになりますか?」 一瞬どぎまぎした。が、高見は、「ぼくでよければ喜んで」 といった。
 「あゝ、それを聞いてあたしも肩の荷がおりました。高見さんがいてくれたら安心だわ」 静江はかつて、遠縁にあたるスコティッシュホールドのような丸顔の園田マリから、この高見友一という一風(いっぷう)かわった男のことを聞いていた。大学時代に古典の研究会で、いっしょに源氏物語や枕草子を学んだことがあるが、人とコミュニケーションがうまくとれず仲間はずれになった男だ、と。
 高見は静江の声をききながら、そっと真緒の顔をうかがった。だが、クールな表情の下にどんな感情を秘めているのか、窺(うかが)い知ることはできなかった。しかし、その謎めいた美しさに魂(たましい)を奪われていたのはたしかだった。
 その日、高見は夕食のもてなしをうけたあと、仔犬を胸に抱きかかえるようにして小山邸をあとにした。だが、今日は下車する青梅駅の時計から、「このボケッ、まじめに司書の仕事する気があるのか。」 という、いつもの罵声(ばせい)は聞えてこなかった。


 玄関の呼びりんがなった。あるじの静江さんから前もって聞いていたので、わたしは玄関先にでて来客を出むかえた。痩(や)せぎすで、上背はあまり高くない。だけど、頬から顎(あご)にかけてひげの剃(そ)りあとの青々としたハンサムな人だった。(あっ、今はこういう男をイクメン、ちがった、イケメンというのね。大丈夫、大丈夫、わたしのボキャブラリーにもイケメンという用語はちゃんと入っているから。) 真緒は、そっと胸のうちでそうつぶやいた。
 高見友一と名乗るその男性は、どことなくおどおどした様子で、「小山先生はご在宅でしょうか」 といった。(あれ?ざい・・たく・・ってどういう意味かしら。わたしの仲間には、近ごろ行なわれた大学の模試で高成績をとったのもいる。数学で偏差値六〇を優に越えたというのが。でもわたしは、それほど頭の出来がよくない。そのかわり容姿には絶対の自信があるの。どれほどかですって?  うーん、カエサルを魅惑した古代エジプトのクレオパトラにも負けないほどといったら言い過ぎかな。any way′まちがえたッ、ともかくこのお客さんが静江さんに会いにきたのは分かっているわ) 真緒は奥の間へ友一を案内した。
 お客さんが静江さんと柴犬の仔犬の話をしている間に、わたしはキッチンでお茶と和菓子の仕度(したく)をした。
 茶菓(さか)を丸いお盆にのせて客間に入っていくと、わたしを見たお客さんが必死で笑いをこらえているのが目に入った。知らんぷりしたけど、じつはわたしまだ歩きかたが少しぎこちないの。この点は産みの親の大柴悟郎(おおしばごろう)先生が、改良事項の一つに加えているところなんです。
 それにもう一つ気になったのは、わたしの目を見たときの高見さんの反応ね。どことなくギクリとした様子をみせたの。一瞬わたし、正体がバレたかなと思った。でもちがった。わたしの蒼(あお)い目の色に驚いただけのようね。
 それから静江さんにいわれて、わたしも黙って話しの輪にくわわった。だけど、どういうわけか高見さん、人見知りがひどいというわりに、わたしと口をきくときはまるでどもらないの。
 静江さんと話すときは、どもりまくるくせに。たぶん、わたしには気をつかっていないからだとおもう。自分でいうのもなんだけど、わたしのこの麗(うるわ)しいすが・・たか・・たち・・心をひかれないのかな。まあ、いいや、そのうちに攻略方法を見つけてやるから。
 そうそう、静江さんのことだけど、「つぎの作品こそがベスト」 というのが口癖なの。「芸術は爆発だっていうフランス帰りの画家もいたけれど、わたし、爆発どころかいまだに自分の色さえもつかめない」 ってぐちっているわ。で、いつも「ダリのヒゲがほしい、ダリのヒゲがほしい」 ってぼやいているの。ご存知かしら? ダリって、アメリカの美術をおおきく変えた超現実派のあのサルヴァドル・ダリのことよ。日本でも有名でしょ、あの人。強烈なインスピレーションが必要になると、ヒゲの先っちょがピンとはね上るんですって。名画を描くには、なにかそういった感知器がないとダメなのかしら。でも、八九歳の静江さんにダリのようなヒゲが生えたら、アッ、ハッ、ハ、想像しただけで笑っちゃうな。
 でも、静江さんが永遠の命をほしがるのは、本心だとおもう。だって、わたしが大柴悟郎先生の手によってこの世に産れでたのも、もとはといえば、静江さんのもつその野心がきっかけなんだから。それに静江さん、高見友一というユニークなお客さんに、泊りこみでの留守番をたのんだりしているでしょ。でもあの高見っていう人は、他の人とコミュニケーションがうまくとれないの。そんな彼に留守番役として白羽の矢が立ったのはなぜか。それが大いなる謎ね。
 だけど静江さんのいないあいだ、小山邸でわたしと彼が二人で過ごす。それはやっぱり刺激的だわ。だってわたしも、人とのコミュニケーションはあんまり得意でないし、それに男とでしょう。しかも肘が胸にふれただけで赤くなるような初心(うぶ)な男といい・・ですもの。どうなることやら、今からわくわくしちゃうな。とはいっても、わたしなんかどうせお釈迦(しゃか)さまのたなごころでもて遊ばれている孫悟空みたいなもの。流れのまゝに流されていくつもりよ。
 それにしても、高見さんてどんな話題を好むのかなァ。大学時代には古典の勉強をしていたようだけど。
 (うーん、古典かァ。でもわたし、そのジャンルって苦手なのよね)
 真緒は間接照明の照らしだすうす明りのもとで、じっとなにかを考えこんでいるように見えた。


 小山静江がフランスに出発した三日後―
 師走にはいり初雪が降った。雪の北鎌倉は樹々の枯れ枝が雪におおわれ、ところどころに梢(こずえ)が顔を出していた。雪に吸収されるためだろう、物音もしない静かな晩であった。
 高見友一は、お手伝いの八重の給仕で夕飯をすませた後、あてがわれた母屋の玄関脇にある八畳の間でボーっとテレビを見ていた。が、ふと立ち上って窓から外を見ると、傘に隠れてしまうほど小柄な八重の帰っていく姿が目にはいった。昼間は大きな牡丹雪(ぼたんゆき)だったが、夜にはいってからは粉雪(こなゆき)にかわっていた。(このぶんだとかなり積もりそうだな) 友一は冷蔵庫からビールをとりだすと、窓際の小さなテーブルの上におき、椅子に腰かけて庭を眺めた。
 木という木が白いわたをかぶり、枝がその重みでたわんでいるが、雪はまだしんしんと降りつづいている。
 汗ばむほどに室内の暖房がきいているからだろうか、ビールをついだグラスが曇っている。友一は鼻唄まじりでひとくち飲んだ後、メールでもしてみるかと、スマホの電源を入れた。すると受信があった。あけてみると、画面にはこんな文句が書きこまれている。
 〝白雪の ふりてつもれる 山里は
     すむ人さえや
       思い消ゆらむ〟
 (よみ人知らず)
 おもわず目を疑ったが、それからにやッとした。(大学でいっしょに古典を学んだ同好会のなかの誰かだな、雪の晩にこんなキザな真似をするやつは) だが、すぐに首をひねった。(おかしいな。学生時代にひところ遊んだ連中も、その後は疎遠(そえん)になっていた。すると図書館の同僚か、それとも女子学生あたりだろうか。いや、待てよ。ひょっとしたら園田マリではないかな) 小山静江の遠縁にあたるマリには、米国で人工知能を研究している大柴悟郎というフィアンセがいた。若い天才肌の研究者で、その道のダーク・ホースといわれている男のようだった。だが、近ごろの若い女性のなかには、まじめで面白味のない男との結婚がきまってから、青春のしめくくりとして恋の火遊びをするものもいる、ときく。
 (うん?たしかこの和歌は、古今和歌集の『冬歌』のなかの一首だったはずだ。) 友一は、自分の家から持ってきた古典の資料の置いてある書棚の前に立って、記憶をたどりながら一冊の文献をとりだした。藤原定家の奥書のある、伊達家本を底本(ていほん)とするものだ。
 (あったぞッ、) 友一は、その文献のなかに、〝白雪の ふりてつもれる 山里は すむ人さへや 思い消ゆらむ〟の三十一文字を見つけた。よみ人は、凡河内みつねだ。(これだッ、雪に埋もれた山里は、そこに住む人の心が消えてしまいそうなほど心細い、とうたったうただ。あれ?このメールの差出人は園田マリではないな。だってマリは心細いどころか、いまごろはフィアンセの大柴悟郎とハワイでバカンスを楽しんでいる最中だもの)
 そのとき、ふと白い面影が瞼(まぶた)に浮かんだ。北条真緒だった。
 (そうか、あの女(ひと)ならよみ人知らずなんていって、この和歌を送ってきてもおかしくないな) 友一の直感はやがて確信にかわった。(離れに会いに行くか。いや、まず和歌で返そう。だけど、どんな歌を返すかだ) しばらく考え込んだあげく、
 〝雪の夜は かくこそありけれ 吹く風の
     目に見ぬ人も こひしかりけり〟
 と詠(よ)んだ。
 元歌(もとうた)の、「世の中は」 ではじまる出だしの部分を、「雪の夜は」に置きかえたものでいわばパクリだった。


 すると、ものの10分もたたぬ間に、見えない相手からの返信が届いた。それにはこう詠まれていた。
 〝うき草の うへはしげれる 淵なれや
            深き心を しる人のなき〟
 (真緒は自分を浮草になぞらえ、自分の心の深部を知って欲しいと願っているのではないだろうか。もしそうなら、ぼくにもチャンスがありそうだ)
 ほろ酔い気分で時計をみると、時刻は10時をわずかにまわっていた。(少し遅いが、離れに行ってみるか。もし真緒さんが寝ているようなら、起こさないで戻ってくればいい。) パジャマのうえに厚手のガウンをまとい、玄関の格子戸(こうしど)を開けると、外に一歩ふみだした。そのとたん、友一は目の前に広がる白銀の世界に圧倒された。
 (これじゃァ、下駄では駄目だ) 友一のいる母屋から真緒のいるA棟までは、僅かに二十五、六メートルの距離だ。が、すでにかなりの雪が積もっている。長靴をはいた。それでも途中で二度、三度と雪に足をとられた。息を切らせながら離れの玄関にたどり着いた友一は、(まるで遭難者みたいだな) と思った。にが笑いをしながらガウンの雪を払い、室内の気配に耳を澄ませたが、静まりかえっている。思いきって呼びりんをおした。
 と、まもなく、玄関脇に設置されたインターフォンから、「はい、高見さんですか。お待ちしておりました。鍵はかかっておりませんので、どうぞお入り下さい」 という真緒の声がした。
 (あれ、どうしてぼくだと分かったのだろうか) 不審におもうまもなく、玄関ドアが内側から開いた。室内から自動でコントロールしているようだった。
 「まだ、おやすみになっていなかったんですか。こんな時間にやって来て迷惑じゃないかな。あんまり雪がすごいもんだから、つい」
 真緒は笑いながら、「つい、何ですの」 と、いたずらっぽそうな顔でいった。「いや、庭の雪を眺めていたら、ちょっと人恋しくなってつい来てしまいました。」
 「迷惑どころか大歓迎ですよ、ちょうどわたしも誰かとおしゃべりをしたかったところなんです。さァ、どうぞこちらへ」
 「でも、真緒さん。さっき玄関で、鍵はかかっていないので入ってくれ、といったでしょ? 不用心(ぶようじん)ではないんですか」 八畳ほどの部屋に案内された友一が、座りながらたずねた。
 「高見さんはご存知ないでしょうが、この小山家には、監視カメラがいっぱい設置されているんです。で、いつも庭の隅々までくまなく目を光らせているんですよ。蟻(あり)のはいでる隙もないくらいに。それに」 といいかけると、今度は友一が、それに?と話しの先をうながした。
 「それに今晩は、わたし、高見さんがきっとこちらにお見えになると思っていました」
 「へぇー、どうしてそんな風に思ったんです?」
 「だって、わたしの送ったあの和歌に、高見さんはちゃんとうた(和歌)で返してくれましたでしょ、だからですわ」
 「やっぱりあのメールは、真緒さんだったか。でも、どうやってぼくのアドレスを知ったの?」 そう問われても、真緒はただ謎めいた笑みを浮かべるだけだった。友一は真緒に、なにか得体の知れないものを感じた。(まさかこのひと、悪魔の化身(けしん)じゃないだろうな。)
 「ぼくはこの小山家に来てもう三日になるけど、まだ真緒さんの年も知らない。どこで生まれてどんな学校に行き、何を学んだ女(ひと)なのかも知らない。」 友一がそういうと、真緒はウフフッとふくみ笑いをした。
 「女の人に年齢(とし)をきいてはダメですよ。それにその物言いは、まるで戸籍係のお役人みたいですね」 そういうと真緒は、「こんなステキな晩に野暮(やぼ)なことをいってないで」 と友一を睨(にら)んだ。そして「熱燗(あつかん)などいかがですか」 といいながら、キッチンへ行き、酒と肴(さかな)を運んできた。三枚におろし、塩と酢でしめたしめ鯖(さば)が旨そうだが、あらかじめ準備をしてあったのだろうか。「なにもおかまいできませんが、どうぞ」 と、真緒が徳利(とっくり)をさしだした。
 もともと友一のからだに酒はあまり合わない。ビールをすでに飲んでいたが、「形だけでもお一つどうぞ」 とすすめられて、ぐい飲みを取り上げた。一口飲んだ後、「真緒さんも、いっしょにどうです?」 徳利を手にして「さあ」 とうながした。真緒は、お酒は一滴も飲めないといい、「それよりお酌(しゃく)をしたいわ。なんだか今夜は芸者さんになったような気分なの。」 そういうと艶(なまめ)かしい仕草でまた酒をついだ。
 「いま芸者という言葉がでたけど、和歌を詠んだり、お酌をしたり、真緒さんて若いに似ず面白い女(ひと)だなア。」 友一がそういうと、「えッ、わたしって面白いですか。まァ、うれしい。それは褒(ほ)め言葉とうけとっていゝんですよね」 と、まがおでに聞いた。
 「もちろんですよ。ぼくのまわりの女性たちって平凡な人が多いんだけど、真緒さんてまるでちがう。どこか遠くの惑星(わくせい)からやってきた女(ひと)のようだ」
 「わたし、異星人みたいですか。でもいいわ。高見さんが気に入ってくれるなら」 そういうと真緒は、徳利を手にして袂(たもと)をおさえ、「さァ、ジャン、ジャン、飲んでくださいね。今夜はわたし、娼妓(しょうぎ)になりたい気分なの」 と、いった。
 「ほう、こんどは娼妓ですか。それって遊女のことですよ、ずいぶん大胆な発言だな。でも、そろそろ高見さんっていう呼び方はやめて、友一って呼んでくれないかなァ。ぼくもあなたを真緒さんって呼んでいるんだから」
 「そうですよねェ、他人行儀(たにんぎょうぎ)な遊女なんて犬も喰(く)わないですもんねェ」 ひと口も酒を飲んでいないのに、真緒はおかしな言葉づかいをした。(いや、犬も喰わないのは夫婦ゲンカだよ) と、友一は心の中で突っこみを入れた。
 外はまだ雪が降りつづいている。が、室内は熱気で窓ガラスが曇り水滴がしたたっていた。
 真緒は「もっとお酒いかがですか」 と、徳利を差しだす。あまり飲めない酒が、今夜はなぜかいくらでも喉をとおった。真緒のすすめ方がうまいのか、魔法にでもかけられたのだろうか。
 「もうすこし、熱燗(あつかん)をおつけしましょうか」
 「いや、もう面倒くさいから冷(ひや)でいいですよ」
 「まァ、めんどうくさいって、どんな匂(にお)い?」
 「ハッ、ハッ、ハ、どんな匂いかだって。しかし、あなたと話していると退屈しないなァ」 そういう友一の呂律(ろれつ)がだいぶ怪しくなっていた。
 「だって、男の人って、昼はしとやかで慎(つつし)み深く、夜は娼婦のように淫(みだら)らな女性がお好きなんでしょう?」
 そういうと真緒は、肩を寄せてしなだれかかってきた。艶やかな髪が頬をくすぐる。(香水かな。いい香りがするなァ) 友一の記憶があるのは、そこまでだった。病的に酔いのまわったせいだろうか、とつぜん意識をうしなった。真緒がふとんを敷き、ひたいを氷のうで冷やしたり、新妻のようにかいがいしい世話ぶりを見せていた。

 目が覚めると、まわりは白一色だった。白い天上に白い壁。白い帽子をかぶった女性がいる。ほどなく友一は、病院のベッドの上に寝ていることを知ったが、昼か夜かもわからない。
 「目が覚めましたか。ご気分はどうです?」 白衣を着てメガネをかけた中年の男性がたずねた。どうやら医者らしいが、顔が歪(ゆが)んでみえた。
 「なんだかぼーッとして、頭がガンガン痛いんです。ぼくはいったいどうしたんですか」 「今朝がた救急車でこの病院に運ばれてきたんですが、急性アルコール中毒です。もう少し遅かったら手遅れになるところでしたよ」 とその男がいった。
 (アルコール中毒、手遅れ?) 頭の中をそんな言葉がとびかうのを感じながら、友一はまた眠りに落ちていった。


 「いったいどうしたっていうの、紗弓(さゆみ)さん。友一さんが入院だなんて。あたしにもわかるようにキチンと説明してちょうだい」 友一が斃(たお)れたとのメールを受けた静江は、とるものもとりあえずフランスから帰国した。声に怒りがこもっているが、無理もない。開催中の個展をほうりだして主催者がとんで帰らねばならなかったのだから。
 小山邸の離れの居間で静江と向かいあっているのは、孫の小山紗弓だった。悄然(しょうぜん)と肩を落としているが、憂(うれ)え顔は見惚れてしまうほど美しい。
v  「どうなの。黙っていちゃ分からないわ」 俯(うつむ)きかげんの紗弓は、真緒にうり二つの顔をしていた。いや、人工知能の真緒が小山紗弓に似せて造られたというのが正しいだろう。静江にうながされて、紗弓がぼつぼつと話しだした。
 「静江おばあさまがフランスに発ったあと、鎌倉に雪が降ったの。それも近ごろ珍しい大雪だった。わたしは、あの実験を実行に移すチャンスがきたと思った」 といった。それは高見・・友一・・が人・・工知・・能を・・もつ・・人間・・にそ・・っく・・りの・・真緒・・に恋・・をす・・るか・・どう・・。その実験・・のことであった。これ以上の舞台装置はないと思い、紗弓は仕掛けたのだというのだった。
 「何を仕掛けたっていうの。焦(じ)らさないで、はっきりおっしゃい」
 「おばあさまも知ってのとおり、友一さんの趣味は古典でしょう。わたしもマリちゃんから聞いてそのことを知っていた。で、ふっと閃(ひらめ)いたの。友一さんを真緒ちゃんのいる離れに誘いだすのに、和歌を使ったらいいんじゃないかって」 「そういえばあなたも、大学では古典を専攻していたわね。うちでよくマリちゃんと俳句を作っていたのを憶えているわ。やれ、季語がどうしたのこうしたのって。マリちゃんとは同い年だったかしら」
 「そうよ、でも年は関係ないでしょ。黙って聞いて。人工知能の真緒ちゃんは、二〇一五年四月に造られたソフィアと同じで学習能力はかなりあるの。だけど、まだ和歌を知らない。で、オートから手動に切りかえて、わたしが真緒ちゃんをリモート・コントロールすることにしたの」 
 「そんなことも出来るのかい」 と静江は感心したようにいった。
 「えゝ、だって真緒ちゃんは自動車にたとえるならば、ハイブリット車なんだもの。スイッチ一つで簡単にチェンジできるのよ」
 「で、あなたがリモコンで真緒ちゃんを操作したの?」
 「そういうわけ。彼女は『他人行儀な遊女なんて、犬も食わないですもんねェ』なんて変なことを喋ったりしたんだけど、その時は人工・・無能・・がとつぜん誤作動しちゃったってわけね」
 「人工無能? なんですか、それ」
 「人間のふりをしておしゃべりをする会話プログラムのことよ。会話ボットともいうの。たとえば『仕事が忙しい』というと、『大変だな、お前も』と人工知能が返す。真緒ちゃんはあらかじめプログラムされたルールに従って、もっともらしい文章を組み立てて返す機能をもっているの。」 紗弓はさらに言葉をつづけた。
 「でもおばあさま、どうやってわたしが、友一さんのメール・アドレスを知ったのかわかります?」 
 「他人のメール・アドレスなんて、そう簡単には分からないものなんでしょう?」
 「もちろんですって。他人のアドレスを自由に知ることが出来たら大変よ。わたしなんか、世の男性たちからのメールが殺倒して溺(おぼ)れ死んじゃうでしょうね」
 「ア、ハ、ハ、ずいぶん元気になったわね。さっきまで、しょんぼりしていたくせに。それにしても、急性アルコール中毒ってこわいのよ。死ぬこともあるんだから。あたし、今からでも友一さんのお見舞いに行かなくちゃァ」
 「落ちついてください、おばあさま。そっちのほうは、もうだいぶよくなったんですって。担当医の奥山先生からうかがったわ」
 「そうですか、それを聞いてほっとしましたよ。あたしだって、人を犠牲にしてまで長生きしたいと思うほど業突(ごうつ)くばりじゃないですからね」
 「あら、永遠の命が欲しいっていたのは、どこのどなた様でしたかしら」
 「いやな子だねェ、あなたってひとは」
 「冗談はさておき話を戻しますけど、真緒ちゃんの人工知能ってすごいんですの。へたな超能力者なんて、とても真緒ちゃんには太刀打(たちう)ちできません。友一さんのメールアドレスは、その真緒ちゃんの特殊能力で探りだしたってわけ。」
 「ふうーん。で、そのアドレスへあなたがお得意の和歌を送ったのね、あたかも真緒ちゃんが送っているように見せかけて」
 「そのとおりです。そしたら彼も、ちゃんと和歌で返してくれましたわ。で、わたしがまた気をひくような思わせぶりなうたを送り返しましたの。そしたら彼が案の定(じょう)、のこのこと雪の中をやってきたってわけなんです」 紗弓は、「でもくやしいのは、友一さんがわたしのいるB棟ではなく、真緒ちゃんのいるA棟に行ったことなんです」 と、つづけた。
 「でも、それは仕方がないでしょ。だって人間の男が、あなたにではなく人工知能の女性にそうとは知らず惚れこむかどうかの実験なんだから。」
 「理屈はたしかにそうなんですよね。でも、わたしは正直のところ、ちょっと面白くなかった。たぶん嫉妬(しっと)なんでしょうけど」
 「バカねェ、人工知能の真緒ちゃんに焼餅(やきもち)をやいてどうするの。で、あなた、それからどうしたの?」
 「くやしいから、友一さんを酔いつぶしてやれって思ったんです。で、酒肴の準備は前もってわたしがしておいたので、真緒ちゃんに芸者さんを演じさせたの。でも真緒ちゃんの芸者さんて、板についていましたよ」
 「それであなたに八つ当りされた友一さん、あまり飲めないお酒をいやっていうほど飲まされた。で、ダウンしちゃったってわけね、気の毒に」 静江はため息をついた。
 「救急車を呼んだのもあなたね?」
 「ええ、大柴悟郎先生にもたっぷり叱られました。『実験がぶちこわしだよ』って。でも、今は十分に反省しておりますので、お赦(ゆる)しを」 そういうと紗弓はぺこりと頭をさげた。
 「それはそうと、友一さんがうちにはじめてきた日の朝、画家がうちの瓢箪池に落ちて亡くなったでしょ。あれは、その後どうなったのかしら」
 真緒の秘密を探りにきた産業スパイの中年男。それを植木屋に粉した二系二世の工作員が始末したのだが、そのことが発覚するのを静江は心配していた。
 「あゝ、あれですか。あの件は警察の人たちがうちにきて現場検証をやったけど、事件性はないとみているようですよ」
 心臓に持病のある中年の画家が、仔犬にじゃれつかれたかなにかしたはずみで、あやまって寒い晩秋の池に落ちた。で、冠状動脈が閉塞をおこしショック死したのだろう。係官たちのそんな話し声が部屋の外から聞こえた、と紗弓がいった。
 「大丈夫かしらねぇ。アメリカのほうだって、人工知能の秘密を守るのに必死でしょうからねえ」
 「大丈夫よ、おばあさま。死んだ中年の男性って本物の画家だったんですよ。まさかお金に困った画家が人工知能の開発企業に買収されて、産業スパイの真似事をしていたなんて、だれも思いませんよ」 と紗弓がいった。「それにその事件は、わたしたちには関係ありませんもの」 。
 産業用のロボットは、いま日本が世界でもトップのシェアを誇っている。だが、人工知能の分野ではアメリカに水をあけられていた。戦場で戦うのが人工知能をそなえたロボットであれば、国民の命を失わずに済む。で、アメリカ政府は、人工知能の開発にたっぷり予算をつけ力を注いでいるのだ。真緒というアンドロイドを造ったのも、米軍の特殊研究所に属する大柴悟郎をリーダーとするチームであった。人口知能を開発中の企業は、どこもが大柴チームの到達した最先端の技術を盗もうと血眼(ちまなこ)になっていたが、そのトップ・シークレットが真緒だったのだ。


 年が明けた一月三日の昼前ころ、園田マリが滞在中のアメリカから、大柴悟郎とつれだって北鎌倉の別邸にやってきた。
 小山静江とその孫の小山紗弓、それに高見友一が二人を出迎えた。友一は園田マリから声をかけられて別邸にきていた。
 応接間で新年のあいさつを交し、五人で屠蘇(とそ)を祝ったあと、大柴悟郎がおもむろに口をひらいた。
 「高見さんも、今回の一連の出来事がどういうことであったのか、だいたいお察っしのことと思います。しかし、実験の責任者である私から、一度キチンと説明とお詫びをさせていただきたいと思って本日ご足労いただいた次第です。」
 そういうと、大柴悟郎はこれまでのいきさつを静かに話しはじめた。それはこういうことであった。
 ― 真緒の誕生する三年前、園田マリがフィアンセの大柴悟郎をつれて、アメリカから北鎌倉の別邸へ遊びにきたとき、静江が悟郎にこういった。
 「大柴さん。あたしねェ、もう半世紀をゆうに越えて日本画を描いています。いえね、作品に没頭した毎日のつみ重ねで、ふと気がついたらこの年になっていたんですの。それでも納得のいく絵はいまだに描けていません」
 「それでね、静江おばあさまは、『次に描く作品こそがベストだと思って今も作品にとりくんでいるのだけど、そのためにも永遠の命がほしい』って口癖のようにいうのよ」 とマリがいった。悟郎は、「私も学者のはしくれとして、なにかお役に立つことができればとつねづね思っています」 そして「目下、研究のテーマを探していたところです」 とも。
 その後アメリカへ戻り、米軍の特殊研究所内にチームを立ちあげた悟郎は、人間そっくりのアンドロイドの開発にとりくんだのであった。
 真緒が誕生したきっかけは、静江のそういった野心にあったのだ。
 大柴は真緒が出来あがると、静江に相談をもちかけた。「まだ真緒は研究途上の不完全なものですが、静江先生の北鎌倉の別邸を貸して下さい。日本の若い人が真緒をほんとうの女性だと思って恋におちるかの実験をしたいのです」 と。
 もとより静江にいやはない。喜んで協力することを誓った。
 そして大柴悟郎を中心とし、日本での助手を小山沙弓。被験者をアスペルガー症候群などに悩む高見友一とするプロジェクトが動き出した。友一がその実験についてなにも知らされていなかったのはもとよりであった。それに静江や紗弓たちも、スパイ騒動や殺人事件が起きるとまでは想定していなかったが。
 園田マリが旧知の高見友一に「柴犬の仔犬を貰わないか」 と誘ったこと。小山静江がパリでの個展で不在の間、友一に留守番を頼んだことまでが、すべてこのプロジェクトに組みこまれていたのだった。
 「するとぼ、ぼ、ぼくは、じ、じ、じ、実験材料にされていたんですか?」
 「ごめんなさいね。友一さん。旧知のあなたをだますようなことになって」 そういうと、園田マリがすまなそうな顔して頭を下げた。とくに紗弓は、肩をすぼめて小さくなりながら。
 「い、い、いいんですよ。ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは気にしません。そ、そんなことより、あ、あ、あんなステキな真緒ちゃんをつくってくれて、あ、あ、あ、ありがとうございます」 と礼をのべた。
 大柴が、「礼をいわなければいけないのは私のほうですよ」 といったあと、
 「ひとつだけ、教えてほしいことがあるんですよ」 といった。
 「高見さんはいま『真緒ちゃんを造ってくれて』っていいましたね」
 「は、はい」
 「いつから真緒ちゃんが人間ではない、と気がついたんですか?」
 「あ、あ、歩き方や、か、か、か、駆ける姿を見たとき、な、な、なにか変だなって。でも、いま話を聞くまでは、まさか人工知能だとは・・・。」といった
 「高見さんが、真緒ちゃんに満足してくれているようでほっとしています。だけど私は、今後、完全な人工知能をもつアンドロイドをつくることは止めようと思っています。」
 「どうしてですか?」 紗弓が、心配そうな顔で訊ねた。
 「いや、人類が滅亡するようなリスクのあるものをつくってはならない。そう考えるからです」
 「えっ?完全なアンドロイドは人類を滅亡させるというんですか」 紗弓は、自分の彼氏・・が造ってもらえなくなるかもしれないので必死だった。
 悟郎はうなずきながら、「もし人が、異性よりも完全なアンドロイドを選ぶことになったら、人は結婚をしなくなるでしょう。男女のつきあいよりも、理想のアンドロイドとの生活を望むでしょうからね。すると、種の保存が維持されず、人類は必然的に滅亡への道を歩むことになってしまう。スティーブン・ホーキングもこういっています。
  “もしも完全な人工知能を開発できたなら、
 それは人類の終焉(しゅうえん)を意味するかもしれない”
 と。
 「でも、私のステキな彼はぜひ造ってほしいんですけど。お手伝いしますので」 紗弓がくいさがった。
 「わかりました。それは約束しましょう」


 「それで、あなた、これからどうするつもりなの?」 静江が案じたのは、孫娘・紗弓のこれからの身のふりかたのことだった。みんなが去って、居間には二人きりだった。
 「早くいゝ亭主を見つけて、身をかためろってことでしょう? おばあさま」
 「あたり前ですよ。いつまでも、このまゝ独り身ってわけにはいかないでしよ。花の命は短いのよ。もたもたしているとあなた、枯れてしぼんじゃうから」
 「大丈夫ですよ、おばあさま。わたしだって自分の生き方ぐらいもうちゃんと決めてあります」
 「おや、この子ったら、ついこの間までおむつをしていたくせに立派な口をきいて。どう決めているというんだい」
 「わたしね、しばらくはこのまゝ悟郎さんのお手伝いをさせてもらうつもりなの」
 「それじゃァ、あなた。結婚より人工知能の実験のほうをとるっていうのかい?」
 「そのとおり。わたしがさっき、悟郎さんと約束したの聞いてたでしょ。自分の理想の男性は、自分の手で造ることにしたんです。どうせどこ探したって、そんな人いるわけないんですもの」
 人間と人工知能をもつ人間のそっくりさんとの対立。紗弓は人生のパートナーに、人工知能の男性のほうを選んだのだ。
 「まあ、この子ったら」 そういったきり、静江は二の句がつげなかった。
 「どう、おばあさま。このアイデア悪くないでしょ? 3Dプリンターを使えば、どんな素敵な男優の顔だって出来ちゃうんだから。それに、浮気なんかしないように設定することもできるし」
 〝恋人は一本のワイン。人妻はワインの空き壜〟 なんていった人もいるけど、このアイデアなら自分はいつまでも高級ワインのまゝでいられるわ、と紗弓はいった。
 「でも、人にそっくりでも、人工知能には感情なんてないでしょ? それに意思だって。つまらないじゃない、そんなの」
 「なにいってるんですか。なまじ怒りや憎しみなんかがあるから、ケンカや戦争がなくならないんじゃないですか。わたしの彼にはそんな感情なんていりません」 といい、「それに自由・・な意・・なんて人間だってもっているか疑問よ」 といった。
 「子供はどうするの? あたしは、早くかわいいひ孫の顔がみたいんだけどねェ」
 「男のでも女の子でも、欲しいだけ可愛いのを造るつもりですわ。一姫二太郎がいいかな。そうしたら、おばあさまも淋しくないでしょう?」
 すると、静江はしばらくの間じっとなにか考えていたが、やがて口を開くとこういった。
 「紗弓ちゃん、あたしも若い美人の女性を造ってほしくなっちゃった。その女性にあたしの脳を移しとったマッチ箱ほどのチップをおさめて生まれかわるの。」
 「おばあさま、それで命を永(なが)らえて、今度こそいゝ絵を描こうって思っているんでしょう、ちがうかな?」
 「残念ね、ちがいます。あなたに話したことはないけど、あたしには若いころ憧れた―南フランスの海のように―蒼(あお)い目の男性がいたの。その彼の素敵なお孫さんと熱烈な恋をしてみたいのよ」
 「なるほど―、それもありかも。」 シンギュラリティ(技術的特異点)が発生すると、とてつもない人工知能革命が起こるとおもう。そうすれば、おばあさまの希望もきっとかなうと思うわ、と紗弓はいった。
 「でもそこまで技術が進歩するには、早くてあと三〇年。ひょっとすると、三〇〇年くらいかかるかも知れないですよ」 それを聞くと、静江はサングラスをはずした。そして目を生き生きとさせながら、両手にペットボトルを持って筋トレをはじめた。


 あれから二年。
 九〇歳をゆうに超えた静江おばあさまは、今も絵を描いたり、筋トレにはげんでいます。
 エッ、それはいいけど真緒ちゃんはいま、どこでどうしているのかですって? わたしも知りたいんですが、詳しいことは分かりませんの。米国の研究所が秘密のもれるのを恐れて、ガードを固くしているんですよ。でもあいかわらず、高見友一さんと都内の某所で暮しているようですね。彼の良きパートナーとして。
 それと、園田マリちゃんと悟郎さんは、半月ほど前ハワイのオアフ島で結婚式を挙げました。
 ですが残念なことに、わたしの理想の彼はまだ半分も出来あがっていないんです。悟郎さんもがんばってくれてはいるんですが。来年の桜花のころまでには完成させたいとおもい、ただいま心をこめて制作中なのですが、はたして間に合いますかどうか。








 
次回へは↓をクリックしてください





 トップ   著者   セミナー   お問い合わせ